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名将高嶋仁の甲子園戦績と指導法!通算成績や経歴、勝利のセオリーとは?

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2018年の夏の大会終了後に智辯和歌山高校野球部監督を勇退した高嶋仁(ひとし)氏。高校野球ファンならば知らない人はいないほどのカリスマ的存在で甲子園で積み上げた勝利数は歴代トップの68勝。

10年ほど前に四国八十八ケ所を巡礼するお遍路を体験、その後お礼参りとして和歌山県の高野山金剛峯寺を参拝したことをきっかけに高野山石道の約20㎞を週に2回歩くなど強靭な体力、精神力の持ち主でもあります。

そんな高嶋監督の高校野球の指導法やセオリーには独特の考えがあり、甲子園で残した戦績、通算成績からも裏付けられています。どんな経歴、またどんな指導法があったのか見ていきましょう!

高嶋仁監督の経歴と甲子園戦績

高嶋仁氏は1946年5月30日長崎県の五島列島、福江島で生まれました。高校時は長崎県の名門海星高校の野球部で投手兼外野手として、1963年、1964年の夏の甲子園に出場もしています。

甲子園出場した際の開会式の入場行進に感動し、指導者として球児たちを甲子園に連れてくることを決意します。その決意通り高校卒業後は日本体育大学へ進学、当時大学に行くための費用や大学入学後の生活費は全てアルバイトで稼ぐという根性ぶりでした。

日体大野球部では主将も務め、1970年に大学を卒業した後は奈良県の智辯学園のコーチを経て1972年に同校監督に就任します。当時の智辯学園は甲子園出場経験はありましたが、高嶋監督自身は1976年春の選抜に初出場します。

翌年1977年には選抜に連続出場しベスト4まで進出、1978年に野球部監督を退き同部副部長を経て1980年に智辯和歌山へ野球部監督として就任します。智辯和歌山赴任後は当初5年間は甲子園どころか部員を集めるところから始まります。

最初は「智辯学園から恐ろしい監督が来る」という噂を聞きつけた智辯和歌山の野球部員たちが逃げ出してしまったそうです。そんな状態ですから、当時の部員たちは体力、技術はなく練習すらまともにできないほどのレベルでした。

そんな状況からスタートした智辯和歌山高校を全国屈指の野球強豪校に育て上げ、自身も智辯学園、智辯和歌山高校で甲子園通算68勝をあげるほどのストーリーとはどんなものだったのでしょうか?甲子園の戦績とともに見ていきましょう。

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高嶋仁監督の智辯学園時代の甲子園戦績

大会結果戦績
1976第48回選抜ベスト82勝1敗
1977第49回選抜ベスト43勝1敗
1977第59回選手権3回戦2勝1敗

1976年の選抜の初出場でいきなり2勝をあげ、翌77年の選抜はベスト4、土浦日大、銚子商、早稲田実業といった関東の強豪校を続々と倒しますが、準決勝でこの大会で優勝した全国屈指の強豪校箕島高校に敗れます。

同年の夏の選手権にも出場し3回戦まで進出、今治西に敗戦しますが、智辯学園時代はこの3回の出場に終わります。智辯学園時代の戦績は7勝3敗でした。続いて1980年に赴任した智辯和歌山高校の戦績を見てみましょう。

高嶋仁監督の智辯和歌山時代の甲子園戦績

大会結果戦績
1985第57回選抜1回戦0勝1敗
1987第69回選手権1回戦0勝1敗
1989第71回選手権1回戦0勝1敗
1991第73回選手権1回戦0勝1敗
1992第74回選手権2回戦(初戦)0勝1敗
1993第75回選手権3回戦2勝1敗
1994第66回選抜優勝5勝
1996第68回選抜準優勝4勝1敗
第78回選手権1回戦0勝1敗
1997第79回選手権優勝5勝
1998第80回選手権3回戦2勝1敗
1999第81回選手権ベスト43勝1敗
2000第72回選抜準優勝4勝1敗
第82回選手権優勝6勝
2002第75回選抜1回戦0勝1敗
第84回選手権準優勝5勝1敗
2003第75回選抜ベスト82勝1敗
第85回選手権2回戦1勝1敗
2005第87回選手権1回戦0勝1敗
2006第78回選抜2回戦1勝1敗
第88回選手権ベスト44勝1敗
2007第89回選手権1回戦0勝1敗
2008第80回選抜ベスト82勝1敗
第90回選手権ベスト83勝1敗
2009第91回選手権3回戦2勝1敗
2010第82回選抜2回戦1勝1敗
第92回選手権1回戦0勝1敗
2011第83回選抜ベスト82勝1敗
第93回選手権3回戦2勝1敗
2012第94回選手権2回戦(初戦)0勝1敗
2014第86回選抜1回戦0勝1敗
2015第97回選手権1回戦0勝1敗
2017第99回選手権2回戦1勝1敗
2018第90回選抜準優勝4勝1敗
第100回選手権1回戦0勝1敗

智辯和歌山では1980年から2018年の28年間で61勝32敗、35回の出場回数で優勝は夏2回、春1回の計3回、準優勝は春3回、夏1回の計4回、ベスト4が2回、ベスト8は4回の戦績を残しています。

しかし1985年春の選抜初出場から1992年夏の選手権まで5回連続で初戦負けを喫します。対戦相手も駒大岩見沢(北海道)、東北(宮城)、成東(千葉)、学法石川(福島)、拓大広陵(千葉)と全て東日本の高校に接戦負けと勝ちきれない時代が続きました。

確かにこの頃の智辯和歌山といえば甲子園には時々出てくる印象はありましたが、強いというイメージは全くありませんでした。ところが1993年には3回戦まで進出、そして1994年の選抜で初優勝を成し遂げたあたりから一気に全国屈指の強豪校へ仲間入りします。

この選抜の優勝では、横浜、宇和島東、PL学園、常総学院といった甲子園優勝経験校を続々と破って成し遂げたものでした。高嶋監督も後日語っていますが、特に宇和島東戦で8回まで0-4の劣勢を跳ね返しての勝利がターニングポイントだったようです。

この試合でそのまま負けていたら以降も1、2回戦あたりで負けるようなチームしか作れなかったと述べています。ここを乗り越えたことで自信がついたと同時に、優勝したことで「また次も」と思うことができるようになったことが大きかったとのことです。

1996年春の選抜は準優勝、決勝戦では鹿児島実業に敗戦します。鹿児島実業は初優勝を飾りましたが、初戦でも和歌山の伊都高校を下しているので和歌山県勢としても鹿児島実業に2敗を喫する結果となりました。

同年夏は1回戦敗退しますが、翌1997年は夏の選手権初優勝を果たします。圧巻だったのは2000年の春に準優勝、夏に優勝を果たした年でした。特に夏の準々決勝では福岡の柳川高校を相手に8回裏に4点差を追いつき、延長11回にサヨナラ勝ちした試合は好投手香月投手を攻略してのものでした。

2002年の夏は2回戦で東邦、3回戦で智辯学園との智辯対決を制すと準々決勝は選抜準優勝の鳴門工業、準決勝で帝京と強豪校を次々と破りますが、決勝戦で馬淵監督率いる明徳義塾に敗戦、準優勝に終わりました。

2006年夏の選手権は準々決勝で球史に残る試合を帝京高校を繰り広げます。こちらも高校野球の名将前田監督率いる帝京とは2002年以来の因縁の対決でもありましたが、この2006年は8回終了時点で智辯和歌山が8-4と4点をリード。

このまま9回も逃げ切ると思いきやなんと帝京が9回表に驚異の粘りを見せ一気に8得点12-8と逆に4点差をつけて残すは9回裏の智辯和歌山の攻撃のみ。普通ならば9回表の逆転で試合は決するのですが、何と9回裏に智辯和歌山が5点を奪い逆転サヨナラ勝ちをおさめました。

このまま勢いに乗って優勝まで駆け上がるかと思いましたが、準決勝では前年夏まで2連覇を達成している駒大苫小牧高校に4-7と敗戦。以降はなかなか決勝まで進むことができずベスト8止まりが続きます。

2007年から2017年までは初戦敗退を4回も経験します。2014年の選抜では初戦で明徳義塾に敗戦、高嶋監督と馬淵監督の対戦成績は高嶋監督の0勝2敗となりました。2015年は春夏通じて初出場の津商業(三重)に屈辱の敗戦を喫しました。

しかし2018年の選抜では久々に強い智辯和歌山が復活、準々決勝の創成館(長崎)戦では5点差のビハインドを中盤に追い上げ、1点ビハインドのまま迎えた9回裏に2点をとって逆転サヨナラ勝ちをおさめます。

準決勝の東海大相模戦では初回に4失点、中盤にいったんは逆転するもさらに失点を重ね6回終了時点で5-10の5点のビハインドとなります。しかし7回に1点、8回に4点を奪い同点に追いつくと延長10回に2点を勝ち越して12-10と逃げ切ります。

決勝の相手は大阪桐蔭、前年の選抜を制して選抜2連覇を狙う超強力チームでしたが、2点先制するも結局逆転を許し2-5で敗退しました。同年夏の選手権は初戦で近江高校に敗戦、この大会後に高嶋監督は勇退しました。

半世紀近く高校野球の監督として甲子園に通算38回出場した高嶋監督ですが、智辯和歌山の野球部監督就任当初は県大会で勝ち上がるのにも苦労しました。それでも高校野球に情熱を注ぎ、徐々にチームを鍛え上げ全国屈指の強豪校にまで育てました。

そこまでの道のりは平たんではありませんでしたが、独特の指導法で克服してきました。どんな指導法や考え方があったのか?続いて見ていきましょう。

高嶋監督の指導法やセオリーとは?

弱小野球部だった智辯和歌山高校の監督に就任した当初は野球をすることさえままならない環境でした。そんなチームを一から育て上げ全国屈指の強豪校に育て上げた指導法とは?どんなセオリーがあったのでしょうか?

智辯和歌山赴任当時の指導法

1980年に奈良の智辯学園から智辯和歌山に赴任した当初は、部員を集めることから始めたというほどのレベルからのスタート。トレーニングしてもすぐにフラフラになるほど体力も技術なく、バットの振り方、ボールの投げ方とまさに一から教えることから始めました。

これくらのレベルには口で言っても伝わらないだろうと練習より試合を優先的に行います。しかし和歌山県内の高校に試合を申し込んでも試合を組んでもらえません。そこで奈良の智辯学園時代に親交のあった池田高校の蔦監督に試合を申し込みました。

当時の池田高校は甲子園の常連、一時代を築くほどの高校です。試合をしてもらうことはできましたが、当然野球にならず30点くらいの差を付けられます。この時の智辯和歌山の選手もさすがに悔しがり、涙を流すものもいたほどです。

この光景を見て高嶋監督は「よっしゃ!この子らも勝ちたいんやな、これならなんとかなる」とミーティングを開き、どうすれば勝てるようになるか一つずつ課題をクリアしていきました。

そこからは少しずつ上達していくものの選手がいません。一学年2人の学年もあったくらいで暇があれば中学をまわって選手に声をかけていったんですが、これでは甲子園に行くのは20年くらいかかるんじゃないかと思うほどでした。

しかしながら選手を一から育てると同時にテレビを有効に利用しました。当時の和歌山県は夏の地方大会は1回戦からテレビ中継があり、まずは県でベスト4にはいることを目指します。

ベスト4まで行けばテレビで4試合は中継されます。4試合も中継されれば智辯和歌山の野球部にも注目があつまり、中学生にも声をかけやすくなります。それで就任3年目に県ベスト4を果たすとその中継を見ていた中学生が入部してきました。

その際に入部した選手が3年生になる6年目に選抜甲子園に初出場しました。当初は20年かかるかもしれないと思った甲子園出場をわずか5年で実現することに成功します。

5大会連続で初戦敗退から常勝チームにするまでの指導法

1985年の選抜大会で初出場を果たし、以降甲子園にもほぼ毎年のように出場するようになります。しかし初出場以降、5大会連続で甲子園初戦敗退が続きます。この間2点差の敗退が1回以外は全て1点差で敗退します。

この頃は甲子園出場することが目的で、ある時観客に「また負けに来たんか?」とやじられるほど甲子園で勝てない時期が続いたため甲子園で勝つための指導法へ考え方を変えます。

5大会とも接戦負けをしているということから、もう少しで勝てるのに勝てないのは肝心のところで守り切れていなかったという点に着目。投手を中心に守りから鍛えなおすことに力を注ぎます。

さらに監督が目立ったらいかんと当初はベンチの隅で指揮をとっていましたが、5回連続で負けたため「これやったらいかん、俺が一番目立ったる」ということで試合中はベンチの前に出て仁王立ちするスタイルに変えたところ、チームが勝ちだしました。

1回勝ちだしたらこの仁王立ちスタイルもやめられないとこの高嶋監督の仁王立ちスタイルが定着しました。仁王立ちはゲン担ぎみたいなところはありますが、打撃が目立つ智辯和歌山の甲子園での常勝の原点は守りを固めるというもので以降この考え方ははずっと変えずに指導してきました。

夏の大会前の追い込み方

智辯和歌山が甲子園で常勝チームと化す過程で、夏の予選前の6月頃には相当厳しい練習を課して体力的に限界の状態まで追い込むという調整スタイルが定着してきました。これは最悪の条件で試合をすれば、体調さえ整えれば負けることはないだろうという考え方に基づくものでした。

この時期の智辯和歌山は練習試合で遠征をしても早朝からランニング、ダッシュ、腹筋背筋をこなしてヘロヘロの状態で試合に臨むのが常となります。さらに試合でも「20対0」なら何もなし、そこから1点とられて「20対1」ならポール間走10本というようなハンディをつけます。

こうすることで点を取るため、点をとられないためどうすればよいか考えて試合をするようになります。実戦に強くなるために相手をいかに攻略するかという考え方をチームに浸透させていくための指導でした。

大会前に相当追い込むことによりふらふらのチーム状態では県予選の1、2回戦あたりは勝つのがやっとか負けることもあるくらいでした。しかし甲子園に出るためではなく決勝まで勝ち進むことを考えて、チームとして甲子園でピークを迎えるために逆算してたどりついた調整法です。

甲子園で勝てないなら県大会で負けるのも一緒という高嶋監督流の考え方に基づくもので、これにより疲れが取れ始める県大会の決勝戦ではほぼ無敗、甲子園での快進撃も続くようになります。

1学年10人の少数精鋭によるチーム編成

高嶋監督の智辯和歌山は1学年10人までという少数精鋭によるチーム編成も特徴です。これも選手の卒業後まで面倒を見るには10名までが限界、選手を預かる以上は目いっぱい指導して大学に行きたかったら行かせたいという高嶋監督の考え方によるものです。

補欠だとなかなか大学にもとってもらえないとうことから何とか10名はベンチ入りさせて、足りないところは下級生で補うというチーム構成は智辯和歌山にはよく見られます。必ずと言ってよいほど智辯和歌山のレギュラーには下級生がいる印象もあります。

また下級生をいれることで新チームに経験者を残すという点も甲子園常勝の秘訣と言えるでしょう。頑張ればベンチに入れるというのも選手のモチベーションを維持するのに役立っているようです。

さらに今では珍しくない野球留学も智辯和歌山にはありません。県外からの入学は1学年2人まで、しかも寮はないので全員通いです。これは学校の方針でもありできるだけ県内の地元の選手で甲子園に出場することを重視してのことですが、全国から選手を集めずに限られた人数で甲子園で結果を残せるのも高嶋監督の指導あってのものでしょう。

まとめ

高校野球の監督として甲子園通算勝利数68勝でトップに君臨する高嶋仁氏。出場回数38回も歴代最多、優勝3回、準優勝4回と十分な実績も残しています。そんな高嶋監督の戦績や経歴、また常勝チームにまで育て上げた指導法について紹介してきました。

  • 高校野球部の監督は奈良の智辯学園が最初、甲子園3回出場を果たす
  • 赴任当初は部員集めから始めるほどだったレベルの智辯和歌山を甲子園出場に導くも当初は甲子園初戦敗退が5大会連続で続く
  • 甲子園の決勝まで勝ち進むことを見据えて選手のピークを甲子園に合わせるために夏の予選前には相当なハードワークで選手を極限まで追い込む
  • 選手をできる限り目いっぱい指導し、卒業後の面倒を見るためにチーム編成は1学年10人の少数精鋭、県外入学も1学年2人まで
  • 1学年10人のため下級生がレギュラーになることも多くベンチ入りのモチベーションを維持すると同時に経験者を新チームに残す

独特の指導法で甲子園の常勝チームを築き上げた高嶋監督は2018年に勇退後も高校野球の解説者として現在も活躍中。経験豊富な高嶋監督独自の目線は多くの甲子園ファンをうならせるものがあります。

高嶋監督の後任の中谷監督も高嶋監督が後継者として強く推薦した教え子です。中谷監督も甲子園ですでに実績を上げ始めています。高嶋イズムが引き継がれていくのか今後の智辯和歌山にも注目です。

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