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名将木内幸男の名言と木内マジックとは?生年月日、経歴もまとめました!

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茨城県牛久大仏

高校野球の名将の一人として必ず名前を挙げられるのが、木内幸男元常総学院監督。茨城県の高校野球を全国区に押し上げ、甲子園で積み上げた勝ち星は実に40勝と歴代ランキング7位に顔を出します。

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何よりも高校野球ファンに親しまれるのが、茨城弁の独特の語り口です。かつての甲子園では東北高校のエースダルビッシュ投手を攻略し、当時最強を誇る桑田、清原のKKコンビ擁するPL学園を決勝で下した手腕は今でも語り草です。

そんな名将木内幸男監督の名言や木内マジックとはどんなものだったのか?生年月日、経歴などとともに紹介します!

木内幸男氏の経歴

木内幸男氏は1931年(昭和6年)7月12日に茨城県土浦市に生まれました。2020年で御年89歳となります。木内氏は地元の超進学校土浦中学(現土浦一高)に入学し、野球部に

も所属していました。

野球部時代は主将でしたが、甲子園出場経験はなく土浦一高自体も甲子園は1957年(昭和32年)夏の1回しか出場はありません。木内氏は慶應義塾大学を受験して合格していましたが、進学することなく母校土浦一高でコーチをしていました。

奇遇にも土浦一高が唯一甲子園出場した1957年に取手二高に「就職」します。木内氏は学校の教員としてではなくいわゆる職業監督として野球部監督を務めることとなりました。土浦一高時代はほぼ無給でしたが、取手二高なら年間100万円の給料が出るということで土浦一高のOB会に勧められてのことでした。

取手二高での最初の20年間は甲子園出場はありませんが、夏の予選で2年連続準優勝(1974年、1975年)すると徐々に頭角を現し始めついに1977年に甲子園初出場を果たします。

勝てなかった当初は「もう俺じゃ勝てねえ、辞めよう」と思ったものの、「どうせ辞めるなら楽しくやろう」としたところ勝ち始めます。「学ぶ野球、教育が主だという」野球から「こんなの子供の遊びじゃねえか」と考え方を変え、「結果を出せば月に10日しか練習に来なくてもレギュラーよ」と極端な考え方にもなりました。

さらに最初の20年間の弱小高時代に強い相手を負かすために考え抜いた意表を突く戦略が後の「木内マジック」にもつながっていきます。1977年に初出場して以降、甲子園にはたびたび出場するようになり、ついに1984年第66回大会の夏の選手権で甲子園初優勝を成し遂げました。

この優勝はあの桑田、清原のKKコンビが2年生のPL学園を決勝で下してのものでした。この時の戦いぶりが「のびのび野球」として注目を集め、木内監督の独特のキャラと相まって一躍有名監督となりました。

取手二高時代の甲子園戦績

大会回戦対戦相手
1977第59回選手権1回戦〇4-1掛川西(静岡)
2回戦●1-3宇都宮学園(栃木)
1978第60回選手権1回戦●1-3岡山東商(岡山)
1981第63回選手権1回戦●1-2鎮西(熊本)
1983第55回選抜1回戦●5-6泉州(大阪)
1984第56回選抜1回戦〇8-4松山商(愛媛)
2回戦〇4-2徳島商(徳島)
準々決勝●3-4岩倉(東京)
1984第66回選手権2回戦〇5-3箕島(和歌山)
3回戦〇8-1福岡大大濠(福岡)
準々決勝〇7-5鹿児島商工(鹿児島)
準決勝〇18-6鎮西(熊本)
決勝〇8-4PL学園(大阪)

1977年に初出場を果たすといきなり甲子園初勝利をあげますが、以降は1回戦負けが3回続きました。しかし1984年は選抜でベスト8まで進出すると、同年夏に初優勝を達成しました。

この決勝戦では、試合前の下馬評ではPL学園が有利という観方が大半でしたが、延長10回表に中島捕手の3ランで勝ち越し、その後1点を取って8-4として勝利を決めました。

決勝まで3連投の桑田投手を攻略しての快勝でしたが、あのPL学園に勝てる高校はあるのかというくらい圧倒的な力を見せつけていたPL学園を相手に繰り広げたのびのび野球は印象的でした。

しかしこの優勝の直後、1985年からは常総学院に移ります。結局取手二高時代は、27年間の監督生活で甲子園は春2回の出場で2勝2敗、夏4回の出場6勝3敗の8勝5敗と優勝1回の成績を残しました。

常総学院時代の甲子園戦績

大会回戦対戦相手
1987第59回選抜1回戦●0-4明石(兵庫)
1987第69回選手権1回戦〇5-2福井商(福井)
2回戦〇7-0沖縄水産(沖縄)
3回戦〇6-0尽誠学園(香川)
準々決勝〇7-4中京(愛知)
準決勝〇2-1東亜学園(西東京)
決勝●2-5PL学園(大阪)
1988第70回選手権1回戦〇19-1小浜(長崎)
2回戦●2-6浦和市立(埼玉)
1989第71回選手権1回戦●1-4福岡大大濠(福岡)
1992第74回選手権1回戦●3-4佐世保実(長崎)
1993第65回選抜1回戦〇9-3宇和島東(愛媛)
2回戦●4-6東筑紫学園(福岡)
1993第75回選手権1回戦〇11-1鳥栖商(佐賀)
2回戦〇4-1近大付(大阪)
3回戦〇1-0鹿児島商工(鹿児島)
準々決勝〇6-3小林西(宮崎)
準決勝●3-5春日部共栄(埼玉)
1994第66回選抜1回戦〇3-0岡山理大付(岡山)
2回戦〇2-0高知商(高知)
準々決勝〇6-2姫路工(兵庫)
準決勝〇13-3桑名西(三重)
決勝●5-7智辯和歌山(和歌山)
1998第70回選抜1回戦〇9-2岩国(山口)
2回戦●4-5明徳義塾(高知)
1998第80回選手権2回戦〇10-3近江(滋賀)
3回戦〇4-2宇和島東(愛媛)
準々決勝●4-10京都成章(京都)
2001第73回選抜1回戦〇8-7南部(和歌山)
2回戦〇4-1金沢(石川)
準々決勝〇4-2東福岡(福岡)
準決勝〇2-1関西創価(大阪)
決勝〇2-1仙台育英(宮城)
2001第83回選手権1回戦〇15-4上宮太子(大阪)
2回戦●0-3秀岳館(熊本)
2002第84回選手権1回戦〇3-2宇部商(山口)
2回戦〇3-0柳川(福岡)
3回戦●6-7明徳義塾(高知)
2003第85回選手権1回戦〇2-1柳ヶ浦(大分)
2回戦〇6-3智辯和歌山(和歌山)
3回戦〇7-0静岡(静岡)
準々決勝〇5-1鳥栖商(佐賀)
準決勝〇6-2桐生第一(群馬)
決勝〇4-2東北(宮城)

2003年の夏の大会前に勇退することを表明しましたが、この最後となる大会でチームは甲子園出場、そして全国制覇を成し遂げます。甲子園の決勝戦は2年生のダルビッシュ投手がエースの東北高校でしたが、ダルビッシュ投手を攻略しての優勝となりました。

2003年に72歳で勇退した後も常総学院に残り学校の理事と野球部の総監督として携わっていましたが、2008年に野球部監督に復帰します。

大会回戦対戦相手
2008第90回選手権1回戦●5-13関東一(東京)
2009第91回選手権1回戦●4-8九州国際大付(福岡)

監督復帰後すぐの2008年に甲子園出場を果たしますが初戦敗退、翌年にも甲子園出場するものの2年連続の初戦敗退を喫し、2011年夏の県予選後に勇退しました。

常総学院の監督としては春5回、夏11回の甲子園出場、甲子園では32勝14敗、春11勝、夏21勝と優勝2回、準優勝2回の成績を残しました。特に印象的なのは常総学院監督の就任1年目1987年の夏の選手権の準優勝です。

当時甲子園出場校の大会屈指の右腕と評された投手に沖縄水産上原晃投手、尽誠学園伊良部秀輝投手、東亜学園川島堅投手などが挙げられていました。これらの投手は高校卒業後にプロ入りするほどの投手でした。

この時の常総学院も後にプロ入りする好投手エース島田直也投手や1年生仁志敏久選手を擁していましたが、これらの投手を擁する高校ほど前評判は高いわけではありませんでした。

しかし2回戦では上原投手の沖縄水産、3回戦では途中降板するものの伊良部投手の尽誠学園を2戦連続で完封勝ちします。続く準々決勝は、ともに後に巨人入りする4番後藤孝志、2年生エースで2回戦の池田戦も好投した木村龍治投手の中京高校(現中京大中京)に初回4点を先制されるも逆転勝ち。

そして準決勝では川島投手の東亜学園に接戦勝ちして決勝まで進出します。決勝戦は84年に続いてまたもやPL学園、この年の選抜も制した優勝候補最右翼のチームです。野村、橋本、岩崎の超高校級の3本柱の好投手に主将立浪、片岡、深瀬といった強力打線はKKコンビのPL学園とどちらが史上最強かと言われたほどです。

結果として木内監督自身2度目の決勝戦、PL学園との対戦は2-5で敗戦、準優勝に終わりました。しかし強力エースを擁する強豪校を軒並み倒しての決勝進出は、木内監督が名将と呼ばれるほどのインパクトを与えました。

その後も1994年春の第66回選抜大会で準優勝、名将高嶋監督率いる智辯和歌山との名将対決となった決勝戦は、2点を先制し中盤に逆転を許す展開。終盤の8回裏に3点差を追いつく粘りを見せるものの9回に2点を勝ち越されての敗戦でした。

2001年春の第73回選抜大会では、茨城県勢から水戸商、藤代と3校が出場する大会となりました。常総学院は3点差1試合、2点差1試合、1点差3試合と接戦を制して木内監督自身初の選抜制覇を達成します。

この大会は、水戸商が敗戦した関西創価、藤城が敗戦した仙台育英を準決勝、決勝で下す県勢のリベンジも果たしました。

2003年夏の第85回大会は圧巻でした。この大会前に勇退を表明した木内監督の最後の采配となる大会でしたが、甲子園出場を勝ち取ると2回戦では智辯和歌山に9年前のリベンジを果たし決勝まで進出。そして決勝戦では注目の2年生エースダルビッシュ投手の東北高校との対決となりました。

この決勝戦では、150㎞超のダルビッシュ投手に対して強攻策をとり中盤に3-2と逆転、8回にダメ押しの1点を加え4-2で逃げ切りました。この試合では常総学院先発の磯部投手を3回途中であきらめ飯島投手へスイッチ、以降東北高校に得点を許さず継投策が見事に決まった試合となりました。

引退表明した最後の大会で有終の美を飾った木内監督でしたが、その後監督復帰した2008年、2009年にも甲子園に帰ってきたもののいずれも初戦敗退。2011年を最後い監督から完全に退きました。

木内監督の通算では取手二高、常総学院の監督として春7回、夏15回の22回甲子園に出場、通算40勝19敗、優勝3回、準優勝2回の輝かしい実績を残しました。茨城県勢の優勝、準優勝は全て木内監督によって成し遂げられたものです。

また注目の名将対決では、PL学園の中村監督とは1勝1敗(84年〇、87年●ともに夏決勝)、智辯学園の高嶋監督も1勝1敗(94年春決勝●、03年2回戦〇)、明徳義塾の馬淵監督には2敗(98年春2回戦●、02年夏3回戦●)という結果となっています。

また対戦した都道府県別では大阪勢との対決が6回と最多、野球王国大阪には分が良く4勝2敗と勝ち越しています。次いで福岡県勢との対決も5回で3勝2敗、和歌山県勢とは4回で3勝1敗と相性の良さが結果に表れています。

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木内幸男氏の名言、木内マジックとは?

木内幸男氏といえばほかの名将とは少しキャラクターが異なり、茨城弁で歯に衣着せぬ物言いと独特の意表を突く采配が特徴で「木内マジック」と評されることも多々在りました。特に1984年のPL学園、2003年の東北高校との決勝戦はともに桑田、ダルビッシュという世代最高の2年生エースを攻略しての優勝でした。

どんな攻略と試合采配だったのか?紹介します。

1984年夏のKKコンビPL学園との決勝戦

当時のPL学園は、前年の1983年に1年生エース桑田真澄投手と1年生4番清原和博選手のKKコンビが、準決勝でまさかの優勝候補池田高校を倒して優勝し、そのままエースと4番が2年生として残ったチームで大会前から優勝候補の筆頭でした。

この年の春には招待試合でPL学園は茨城県に招待され、取手二高もPL学園と対戦し0-13と完膚なきまでに叩きのめされてしまいます。そのため決勝戦で対戦することが決まっても勝とうなんて気は全然なかったようです。

試合前も「相手は2年生が中心のチーム、だから負けるな」と学年だけが頼みの綱というお手上げ状態。「なんべんやったってかなわない相手、でも1回勝てばいいんだよ」と選手を鼓舞しました。

また「桑田投手は日本一の投手だから打てなくてあたりまえ。せめて子や孫に自慢できるよう1本打っておけ」と独特の言い回しで選手をリラックスさせます。

それでも「桑田投手は3連投だから絶対弱るぞ!」と冷静に見ていたところ、初回の攻撃で凡退した1、2番打者は「今日の桑田はキレがないから打てる」と分析。結局、その後の3番、4番でヒットを打って1点先制することに成功しました。

対戦した中村監督は逆に招待試合で完勝したことと取手二高が大会を通して勢いに乗っていることにやりにくさを感じていました。それでもさすがのPL学園、9回にPL学園が追いつき試合は4-4のまま延長戦に突入。

この時点で中村監督も何とかなるかなとは思ったものの9回の攻撃で同点後に出塁した走者を送れなかったことを悔やみます。案の定、10回表にその時走者を二塁で封殺した中島捕手が3ランを放ちます。

この3ランで7-4、勝負は決したように思いますが、木内監督は「PLなら誰が打ってもホームランになりうる。3ランの可能性はあるが満塁ホームランはないだろう。4点目が取れれば勝てる」と読み、実際に4点差となる8点目をとったときに「勝てる」と確信したようです。

結局10回裏はそのまま逃げ切りPL学園を相手に初優勝を成し遂げました。またこの試合では終盤打ち込まれたエース石田投手をいったん外野に下げた後、再登板させます。再登板後の石田投手はPL学園を抑えます。

この時は「石田投手を外野に下げたら、投げたくて仕方ない仕草を見せた。それでもう一度マウンドに上げたら甦った」と語っています。投手の心理を上手に操った木内マジックの一つと言えるでしょう。

2003年夏のダルビッシュ投手東北高校との決勝戦

1984年の時と同じく超高校級の2年生エースダルビッシュ投手を攻略した試合にも木内マジックが光りました。最大の勝因は継投策とダルビッシュ攻略策です。

試合前には屈指の好投手ダルビッシュ投手と対戦するとあって試合は「3点勝負」と読みます。その読み通り2回裏に先発の磯部投手を断念すると右横手投げの飯島投手に思い切ってスイッチ。球威のある直球と落差のある変化球が東北打線の的を絞らせませんでした。

さらに攻撃面では、積極的な攻撃を徹底します。この時の木内監督は「早い回にランナーを送って1点取ったくらいではどうにもならんだろう。それよりも五分で行って終盤に2点か3点取ってパッと終わらせるのが理想」

「終盤にランナーが出ても送らずにアウトになった方がダルビッシュ君も気が緩む。送って二塁にランナーがいたりする方がかえって本気になってしまうだろう。」ということで強硬策を徹底しました。セオリーを無視したかのように見える采配は、当時解説者や外部からもいろいろ言われたそうです。

しかし木内監督は「あれは2年生投手ダルビッシュ君の心を攻めた」と語っています。弱者としてどう試合に挑むか?ということを常に考えて取り組んできた木内監督ならではの采配でしょう。

試合は、救援の飯島投手が7回を無失点、打っては4回に1死1塁から送らずに強攻で同点、2死後にも2塁打と3塁打で「パッ」と逆転に成功します。結局、飯島投手が東北打線に的を絞らせずに9回を投げ切り優勝を決めました。

木内監督は勝っても喜びを表現することはせず、「勝つ手をうって勝ったんだから勝つのは当たり前なの」とこれまた独特の表現をすることが木内マジックと評されるゆえんでしょう。

まとめ

歴代の高校野球の名将の一人木内幸男元常総学院監督。甲子園での実績もさることながら独特のなまりと名言で全国の高校野球ファンにも親しまれた北監督です。

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甲子園ではKKコンビのPL学園やエースダルビッシュ投手の東北高校との決勝戦を制し、不利と言われる状況で強力な対戦相手を負かせてしまう手腕は「木内マジック」と評されてきました。

そんな名将木内幸男監督の名言や木内マジックとは?生年月日から経歴まで紹介しました。

  • 1931年7月12日生まれ、甲子園初出場は45歳を超えての遅咲きながらその後80歳近くまで監督を務める
  • 取手二高就任当初20年近くは甲子園と無縁ながらも弱小校として強い相手を負かすことを考えてきたことが後の木内マジックの礎となった
  • 1984年夏、KKコンビ2年生のPL学園との決勝戦は独自の分析と選手を鼓舞しての初優勝
  • 2003年夏、超高校級2年生エースダルビッシュ投手の東北高校との決勝戦では継投策と強硬策で攻略
  • 監督通算甲子園40勝は歴代ランキング7位、優勝3回、準優勝2回の実績を残す

以上のように甲子園でも職業監督として独特のキャラクターで勝ち星を積み上げてきた木内氏は高校野球界における功労者でもあるといえます。優勝経験のなかった茨城県の高校野球を盛り立て県の優勝、準優勝は全て木内監督によって成し遂げられたものでした。

木内監督の教え子も各高校で野球部の監督を務めています。木内監督のDNAを受け継いだ野球が今後みられるのかも楽しみです。


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