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高木守道氏死去で板東英二氏がラジオ番組「板東サンデー」で語った内容とは?

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高木守道さんの地元岐阜城

2020年1月17日突然の訃報が飛び込んできました。ミスタードラゴンズ高木守道氏が急性心不全、78歳で亡くなられたとのこと。中日ドラゴンズ一筋、監督も2回務められたほどドラゴンズを語る上で欠かせない重鎮が78歳で天に召されました。

CBCラジオ「板東サンデー」を毎週聞いて、野球に関する貴重な情報、貴重ではない情報(ほとんど板東さん)を聞いてレジェンドのお二人、板東さんと高木守道さんとの正反対のキャラのお二人のトークはものすごく楽しいものでした。

いつの間にかこの番組が日常に欠かせないほどのものになっていましたが、ラジオ番組でも全然元気だった高木守道さんの突然の訃報に悲しみを感じるとともに心にぽっかりと穴が開いてしまった方のためにどんなラジオ番組だったのか、1月19日の放送内容などお伝えしたいと思います。

高木守道さんとは?ものすごいプレイヤーです!

なかなか若い人には伝わらないかもしれませんが、高木守道さんといえば有名なバックトス、打っては2274安打、ゴールデングラブ賞3回、盗塁王3回の俊足好打の選手としてドラゴンズをけん引、ミスタードラゴンズとして監督も歴任した偉大なるプレイヤーでした。

1941年(昭和16年)7月17日生まれ岐阜市出身。1957年の1年生の時には夏の甲子園でデビュー、1959年の選抜では中京商に敗退するも準優勝の成績をおさめました。同年夏は県大会決勝で敗退しましたが、同年に中日よりスカウトされ1960年に中日に入団します。

ご本人もラジオで語っていましたが、母校県岐商で1年生の時に臨時コーチとしてあの長嶋茂雄氏に指導を受けたのが人生の転機でした。立教大学のスーパースター長嶋氏から「あの子はうまいですよ、レギュラーで使ったらどうですか」と監督に推薦され、その後1年生から強豪県岐商のレギュラーを勝ち取りました。

中日に入団後は、初打席初本塁打でデビュー。77年には野球タイ記録の4打数連続本塁打も達成、ベストナイン7度受賞、プロ野球界を代表する走攻守揃った名二塁手でした。

1980年に選手引退し、翌81年から中日のコーチ、84年、85年には2軍監督、86年はコーチの後、7月から代理監督を務めました。92年に中日の監督を務め94年にはあのプロ野球伝説の「10.8決戦」でも指揮を執りました。

当時の対戦チームジャイアンツの監督がミスターこと長嶋茂雄氏、プロ野球入団のきっかけといっても過言ではない県岐商時代の臨時コーチでした。試合は惜しくもジャイアンツに敗戦、翌95年のシーズン途中に監督を辞任しました。

2回目の監督就任は、それまで中日の黄金時代を築いた落合監督の後を受けてのものでした。高木第2次政権の時はとにかくファンを大事にする「ジョイナス」という合言葉で数多くのファンサービスに精力的に取り組んでいました。

2回目の監督辞任後は、野球解説や東海地区のテレビ、ラジオ番組などに出演、CBCラジオ「板東サンデー」では1年上の板東英二さんとの軽妙なトークで数多くのリスナーを楽しませてきました。

CBC板東サンデーの面白トーク

毎週日曜日の午後1時からCBC(中部日本放送)ラジオで放送されている板東英二氏がパーソナリティを務める「板東サンデー」にレギュラー出演していた高木守道さん。現役時代から寡黙なイメージの高木さんとあのおしゃべり上手な板東さんとのコンビは実に絶妙でした。

現役当時は、高校時代徳島商業で全国区の板東さんは高木さんの1年先輩ですでに中日ドラゴンズで活躍していました。そんな板東さんは寡黙だからという理由でよく高木選手とつるむようになったそうです。

そんな大先輩とのラジオ番組ではいろんなエピソードもお話しされていました。レギュラーとしてラジオにも慣れてくると高木さんが板東さんをいじったりするシーンも聞かれ、回数を重ねるごとに番組は盛り上がっていったように思います。

ラジオ番組で発言があったので印象的だったのは1960年5月のプロデビュー当日のお話でした。2軍の試合が岐阜であり試合終了後、寮に帰るため名古屋へ電車で移動、名古屋駅でパチンコをして時間をつぶしていたところ、館内放送で「中日球場(ナゴヤ球場)へ向かってください」と呼び出され急遽1軍戦に出場したというお話でした。試合には代走で出場し、試合終盤の打席で初打席初本塁打を記録しました。

番組内では板東さんを持ち上げながらも時にいじり、たまに高木さんが選手時代の輝かしい実績の話をすると板東さんから「(そんな自慢話をするなんて)お前は板東か!」というお決まりの突っ込みを受けていました。

現役時代は板東さんが投げている時にピンチになると「フォアボールばかり出してないでもっとストライク取れよ」と先輩に対して叱咤する話や、寮で門限破りばかりしていた板東さんが朝方帰ると高木さんの部屋に向けて石を投げて玄関のカギを開けるよう合図を送っていた話なども面白かったと記憶しています。

ラジオ番組の収録があるときは板東さんを必ず名古屋駅まで迎えに行っていたというエピソードもあり、番組内では板東さんをいじりながらもきちんと先輩に対する敬意も持ち合わせているところはさすが体育会系ですね。

高木さんが1回目の監督に就任した際の話では、板東さんから「なんで俺をコーチとして呼ばんかったのや!」と毎回突っ込みを受けていましたが、高木さんは「だって当時は板東さんは俳優やテレビ番組で忙しかったじゃない?」と切り返すシーンもたびたび繰り返されました。

また「次回監督やる時は俺をコーチに呼べ」と板東さんから懇願されると「もう監督はやりません」と即答、自身も監督としてはダメ監督だったと謙遜する場面や10.8の時の投手采配を悔やむシーンもお話しされていました。

母校に関する話題でも、板東さんに促されて母校の県岐商の校歌の冒頭を口ずさむ場面や、2020年選抜出場濃厚な母校のユニフォームが変わったことには微妙な反応を示したこともありましたが選抜出場を楽しみにしていたことでしょう。

とにかく寡黙で頑固な高木さんを板東さんが茶化したり、ネタにするたびに高木さんが切り返す数多くのシーンは野球ファンならずとも楽しいトーク番組だったに違いありません。亡くなる5日前の12日にも番組出演しておりいつも通りのお元気な様子でしたので多くの球団関係者、放送関係者の方が驚きを隠せない様子です。

CBCラジオでは1月19日の日曜は駅伝の中継の関係で「板東サンデー」は16時からの放送となります。板東英二さんがどんな思いを語るのかに注目するのと同時にどれだけ落胆しているのか心配でもあります。

19日の放送の冒頭では、板東さんが毎回放送のある日には迎えに来てくれていた高木さんが来なかったことを「失礼なやっちゃな~」と開口一番、先に逝ってしまった後輩に対する悲しみを押し殺しながらも努めて明るくふるまうようなトークで話し始めました。

リスナーからのメール、投書が番組あてに山のように来ていたようで、いつものお二人のトーク、お決まりの「お前は板東か!」「今度監督やるときはヘッドコーチ頼むで」といったやりとりが聞けないことを寂しがる声が多数寄せられていました。

そして毎回、往年の名選手を紹介するコーナーでは「高木守道さん」を紹介、板東さんは名二塁手だった高木さんこそが12球団ナンバー1で信頼できる野手だったこと、高木さん1年目からのつきあいはじめの別府でのエピソードなどを披露しました。

終始しんみりする様子はなくご遺族とのやりとりを面白おかしく語るなど、随所に高木さんを称えながらまるで何事もなかったかのようにいつも通り高木さんをいじるトーク全開でした。番組中には板東さんが唄っていた1974年の「燃えよドラゴンズ」、あの「1番高木が塁に出て~」の不朽の名作をフルで流してくれました。

当初、板東さんが落ち込んでいるのではないかと心配していましたが、いつも通りの明るい番組を押し通そう、まるで高木さんはまだご存命かのように振舞った板東さん、加藤由香アナのトークに何かホッとした気持ちになれました(涙)。

さてCBCラジオでは1月21日(火)19時から高木守道さんの追悼特別番組を放送、高木さんとの親交が深かった久野誠アナウンサーやドラゴンズOBの今中慎二さん、彦野利勝さん、中村武志さんも出演予定です。

CBCテレビの19日放送サンデードラゴンズでも高木さんの追悼特集を予定しており、偶然にも背番号1を受け継いだ京田選手、セカンドを受け継いだ阿部選手がゲスト出演の予定です。

あの楽しいお二人のトークがもう聞けないとなると寂しい限りです。板東サンデーのアシスタントを務める加藤由香アナウンサーが別のラジオ番組で高木さんの訃報を伝える際に言葉に詰まってパーソナリティが代読するシーンもありました。

思わずもらい泣きしてしまいましたが、それだけ深い悲しみがあったことだと思います。リスナーの我々も同じ思いでふと高木さんを思い出すと涙がにじんできます。あまりにも突然すぎて残念ですが、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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