堂林翔太選手は、2009年にドラフト2位で広島カープから指名、野手として2010年に入団しました。プロフィールについて見ていきましょう。
名前 | 堂林 翔太(どうばやし しょうた) |
誕生日 | 1991年(平成3年)8月17日 |
投打・ポジション | 右投右打・内野手 |
出身 | 愛知県豊田市 |
出身校 | 中京大中京高校 |
身長・体重 | 183㎝、83㎏ |
血液型 | A型 |
ドラフト年、順位 | 2009年2位 |
堂林選手は、小学校2年生に「豊田リトル」で野球を始め、中学生時は「豊田シニア」で投手兼内野手としてプレーします。高校は愛知の名門中京大中京に進学、1年春からベンチ入りしました。
2年生春にはチームは第80回選抜大会に出場しますが、初戦敗退、堂林選手も出場機会はありませんでした。2年秋の新チームからはエースで4番と大黒柱としてチームを引っ張り、東海大会を制して翌年の選抜出場を決めます。
3年生時の第81回選抜大会では、自身の活躍もありベスト8まで進むも準々決勝で報徳学園に敗退します。この報徳学園戦では9回の1点リードを守り切れず2点取られての逆転負けを喫し、夏でのリベンジを誓います。
しかし選抜後の4月に左足内側じん帯を損傷、6月後半に復帰しますが、復帰後は打者の低めに制球するコントロールを身に着けます。バッティングは準々決勝で対戦した永田裕治監督が「バケモノ」と評価するほどで打球の速さには定評がありました。
選抜での悔しさを晴らすために夏に向けて取り組んだチームは、愛知大会も圧倒的な強さで勝ち上がり第91回選手権大会に出場します。この大会はエースで4番の堂林選手の活躍もあり、同校の史上最多7回目となる夏の甲子園制覇を果たしました。
関連記事:甲子園歴代最多優勝校は愛知代表中京大中京と東邦!高校野球の超名門!
甲子園の決勝では新潟県の日本文理高校と対戦、今でも決勝戦の名勝負として語られる試合でした。この試合では9回表日本文理最終回の攻撃の時点で10-4と中京大中京がリード、9回表も簡単にツーアウトランナーなしとなります。
このまま中京大中京が優勝を決めると思われた展開から日本文理の怒涛の反撃を受け、最終的には10-9で中京大中京が逃げ切るもの日本文理の「終わらない夏」に多くの観客、高校野球ファンが感動を覚えました。
堂林選手は決勝戦に先発するも6回に降板、点差のついた9回に志願してマウンドに再度上がります。しかし最後の最後で日本文理の猛攻に会い、9回2死から降板、ライトの守備につき、優勝の瞬間はライトで見守っていました。
優勝後のインタビューでは「最後は本当に苦しくて…最後まで投げたかったんですが。本当にすみませんでした」とお立ち台で涙を見せました。最後まで投げ切れなかった悔しさと不甲斐ないピッチングへの自省から異例のインタビュー、勝ったチームが泣き、負けたチームには笑顔という対照的な幕切れとなりました。
堂林選手は決勝戦での初回先制2ランなど大会通じて12安打12打点、全6試合で安打を放つなど猛打爆発、投げても40回1/3を防御率3.12で優勝の立役者となりました。
高校通算13本塁打ながらも、非凡な打撃センスはプロ野球のスカウトの目にも止まり野手として評価は高く、2009年のドラフト会議で広島カープに2位指名され2010年に入団します。
続いてプロ入り後の通算成績について見てみましょう!
2010年に入団しますが、2年目までは1軍登録、試合出場はありません。3年目の2012年から1軍の公式戦に出場するようになりました。以降2020年までの通算9年間の成績を見ていきましょう。
年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 打率 |
2012 | 144 | 554 | 488 | 118 | 45 | 14 | .242 |
2013 | 105 | 410 | 364 | 79 | 41 | 6 | .217 |
2014 | 93 | 330 | 284 | 70 | 28 | 8 | .246 |
2015 | 33 | 73 | 69 | 18 | 3 | 0 | .261 |
2016 | 47 | 60 | 56 | 14 | 2 | 2 | .250 |
2017 | 44 | 54 | 46 | 10 | 11 | 1 | .217 |
2018 | 63 | 60 | 51 | 11 | 5 | 0 | .216 |
2019 | 28 | 38 | 34 | 7 | 2 | 0 | .206 |
2020 | 111 | 451 | 401 | 112 | 58 | 14 | .279 |
通算 | 668 | 2030 | 1793 | 439 | 195 | 45 | .245 |
プロ入り2年目までは2軍生活を送り、三塁手を中心に遊撃手もこなしました。しかし3年目となる2012年に1軍昇格、7番サードで開幕スタメンに名を連ねました。
この2012年シーズンは全試合に出場し、チーム最多となる14本塁打を記録しました。オールスターにも初出場するなどブレークの予感を感じさせました。2013年には背番号も13から7へ変更、公式戦では初のサヨナラ本塁打を放ち、オールスターにも2年連続で出場します。
しかしこのシーズンは死球による故障で105試合の出場にとどまり、打撃成績も全て前年を下回ることとなりました。続く2014年も打撃の調子を落とし、オールスターにこそ3年連続で出場するものの出場試合数は前年より減ってしまいます。
2015年、2016年は開幕1軍からも外れ、2軍での生活が増えます。1軍での試合出場も激減し、2017年は3年ぶりの開幕1軍スタートでしたが、代打や代走での出場も多く1軍と2軍を行ったり来たりを繰り返します。
2019年は1軍戦でサヨナラヒットを放つシーンもありましたが、初めて1軍昇格した3年目以降最少の出場試合数となりました。しかしすでに後がないという自覚を持った堂林選手ですが、2020年は開幕から好調を維持します。
2020年シーズンは構えが非常にゆったりしていてボールを呼び込む形ができているのが打撃好調につながり、打率、打点、本塁打でのキャリアハイの成績となりました。
元々右方向へも大きい打球を打てるのが持ち味でしたが、フォーム改造でセンターを中心に左右へ無理なく打球を打ち返しているのが高打率の要因ではないでしょうか?
またチームの後輩強打者鈴木誠也選手にも「右中間がセンターと思って打席に入ればいい」というアドバイスをもらったことで、まさしく逆方向へ意識して打ち返していることが好結果につながっていると言えます。
関連記事:広島鈴木誠也出身校、血液型、通算成績は?高校通算本塁打もすごかった!
11年目での再ブレーク、広島の主軸として安定した成績を残せるのか今後が見ものですね。
堂林翔太選手は2010年に契約金7,000万円、年俸700万円の条件で入団契約しました。2021年までの12年間の生涯年俸、年俸推移を見てみましょう。
年度 | 年俸(推定) |
2010 | 700万円 |
2011 | 700万円 |
2012 | 700万円 |
2013 | 1,700万円 |
2014 | 2,000万円 |
2015 | 2,000万円 |
2016 | 1,830万円 |
2017 | 1,650万円 |
2018 | 1,500万円 |
2019 | 1,600万円 |
2020 | 1,600万円 |
2021 | 3,600万円 |
通算 | 1億9,580万円 |
1軍出場のない2年目、3年目の年俸は700万円の現状維持でしたが、1軍全試合出場した2012年の翌年年俸は1,700万円までアップします。2013年は成績を下げましたが、300万円増の2,000万円、翌年も現状維持となりました。
1軍での試合数が激減した2015年の翌年以降は1000万円台で上下しますが、大きく減らすこともなく球団の期待がうかがえます。2020年はシーズン終了まで首位打者の成績をキープできませんでしたが、2,000万円増と倍以上の金額を勝ち取りました。
2021年はさらに経験を積んでどれだけ存在感を示すことができるのか?期待したいですね!
2020年シーズンで覚醒したかのように打撃が好調だった広島カープの堂林選手。入団3年目には1軍全試合出場を果たすも、その後は1軍と2軍を往復する生活が続いています。
もともと打撃には非凡なものがあり、高校時代からそのセンスには定評がありました。そんな堂林選手の出身校、身長、体重などの経歴から甲子園決勝のエピソード、プロでの通算成績などを見てきました。
中京大中京高校のエースで4番として夏の甲子園の優勝に貢献、打者としてプロ入り後もオールスターには3回出場するなど大舞台には強い選手のはずです。後輩スラッガー鈴木誠也選手のアドバイスも受けて2020年に活躍、2021年シーズンにはさらなる飛躍が期待されます。