名前 | 原 辰徳(はら たつのり) |
誕生日 | 1958年(昭和33年)7月22日 |
投打・ポジション | 右投右打内野手 |
出身 | 福岡県大牟田市 |
出身校 | 東海大相模高校→東海大学 |
身長・体重 | 180㎝、86㎏ |
血液型 | A型 |
ドラフト年、順位 | 1981年1位 |
原辰徳氏は福岡県大牟田市で誕生し幼少期の小学校1年まで大牟田市で過ごします。小学校2年の時に福岡県の三池工業野球部監督を務めていた父の原貢氏が、東海大相模高校の野球部監督就任に伴い神奈川県厚木市に引っ越します。
貢氏は三池工業で1965年夏の甲子園優勝を果たし、当時甲子園での対戦相手だった東海大一高校の試合を観戦した東海大学松前総長に招かれ、東海大相模高校の野球部に就任しました。当時は東海大相模は今ほどの強豪校ではありませんでしたが、貢氏の就任により野球強豪校へと変化を遂げていきます。
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貢氏は1966年に東海大相模高校の監督就任して3年後の1969年夏に同校の甲子園初出場を果たします。わずか数年で激戦区神奈川県の高校野球勢力図を塗り替えた貢氏のもとに息子である辰徳氏が入部します。高校時代の成績はどうだったでしょうか、見てみましょう。
年度 | 回戦 | スコア | 対戦校 | 打数 | 安打 | 打点 |
1974夏 | 2回戦 | 〇3-2 | 土浦日大(茨城) | 6 | 2 | 1 |
3回戦 | 〇13-6 | 盈進(広島) | 5 | 2 | 1 | |
準々決勝 | ●4-5 | 鹿児島実(鹿児島) | 6 | 3 | 2 | |
1975春 | 2回戦 | 〇1-0 | 倉敷工(岡山) | 3 | 1 | 0 |
準々決勝 | 〇2-1 | 豊見城(沖縄) | 4 | 0 | 0 | |
準決勝 | 〇6-2 | 堀越(東京) | 3 | 1 | 1 | |
決勝 | ●5-10 | 高知(高知) | 5 | 3 | 1 | |
1975夏 | 2回戦 | 〇5-3 | 松商学園(長野) | 5 | 1 | 0 |
3回戦 | 〇7-3 | 三重(三重) | 3 | 1 | 2 | |
準々決勝 | ●4-5 | 上尾(埼玉) | 5 | 4 | 2 | |
1976夏 | 1回戦 | 〇5-0 | 釧路興南(北海道) | 3 | 1 | 0 |
2回戦 | ●0-1 | 小山(栃木) | 4 | 1 | 0 | |
甲子園通算 | 52 | 20 | 10 |
中学時代はエースで4番だった辰徳少年は、父貢氏が率いる東海大相模への進学を決めました。貢氏は辰徳氏の当初一緒に野球をやることをためらったようですが、いざ入部すれば他のどの選手よりも厳しく接しました。
実の親子ということもあり、他の選手と実力が5分ならレギュラーにしない、7分くらいでないと使わないと辰徳氏に言い聞かせますが、辰徳氏は見事1年生ながら5番サードのレギュラーを勝ち取ります。
東海大相模高校時には3年間で夏3回、春1回の甲子園出場を果たし、甲子園での成績は52打数20安打の打率.385、1本塁打10打点と大活躍し、親子鷹として甲子園でも注目されます。
1年の夏は準々決勝で元巨人の定岡正二投手率いる鹿児島実業に延長の末敗戦しますが、17打数7安打と強烈な印象を甲子園ファンに残しました。2年の春には3番サードとして決勝まで進出、「西の杉村、東の原」とまで言われた元ヤクルト杉村選手の高知高校に延長13回で敗戦するも準優勝を成し遂げます。
2年の夏は準々決勝で敗退、3年春は甲子園出場は叶いませんが、3年時は3年連続となる夏に出場し2回戦敗退するも甲子園ではお馴染みの選手となりました。甲子園では1本塁打ながらも高校通算本塁打は43本と長距離打者としての片りんも見せました。
高校卒業後は、貢氏の東海大学野球部監督就任と同時に東海大学に入学します。首都大学リーグでは、3回の最高殊勲選手、7回のベストナイン、2度の三冠王を獲得、通算93試合で打率.398、21本塁打、105打点の成績を残しました。
大学時には3年時の日米野球で早稲田の岡田彰布(元阪神監督)とクリーンナップを組み、翌年のアマチュア野球世界選手権には大学生として唯一日本代表に選出されています。
高校、大学と輝かしい実績とスター性を兼ね備えて1980年ドラフト会議にて1位指名、巨人、広島、大洋、日本ハムの4球団が競合するも巨人が交渉権を獲得して入団を果たします。
年度 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 打率 |
1981 | 125 | 507 | 470 | 126 | 67 | 22 | .268 |
1982 | 130 | 542 | 494 | 136 | 92 | 33 | .275 |
1983 | 130 | 571 | 500 | 151 | 103 | 32 | .302 |
1984 | 130 | 543 | 468 | 130 | 81 | 27 | .278 |
1985 | 124 | 521 | 441 | 125 | 94 | 34 | .283 |
1986 | 113 | 467 | 406 | 115 | 80 | 36 | .283 |
1987 | 123 | 489 | 433 | 133 | 95 | 34 | .307 |
1988 | 126 | 529 | 467 | 140 | 81 | 31 | .300 |
1989 | 114 | 459 | 395 | 103 | 74 | 25 | .261 |
1990 | 103 | 425 | 366 | 111 | 68 | 20 | .303 |
1991 | 127 | 524 | 455 | 122 | 86 | 29 | .268 |
1992 | 117 | 493 | 437 | 119 | 77 | 28 | .272 |
1993 | 98 | 387 | 336 | 77 | 44 | 11 | .229 |
1994 | 67 | 227 | 200 | 58 | 36 | 14 | .290 |
1995 | 70 | 160 | 144 | 29 | 15 | 6 | .201 |
通算 | 1697 | 6844 | 6012 | 1675 | 1093 | 382 | .279 |
1981年の1年目から開幕戦にスタメンで出場、打率.268、22本塁打、67打点で新人王を獲得、2年目には最多勝利打点のタイトルを獲得します。
3年目の1983年には打率.302、32本塁打、103打点と3割、30本、100打点を達成、打点王、最多勝利打点のタイトルを獲得。ジャイアンツもリーグ優勝しMVPにも輝いています。
以降もジャイアンツの4番打者として活躍、87年、88年には3割30本塁打を記録するなど球界を代表する強打者として実績を残します。1992年には入団以来12年連続20本塁打の当時の日本記録を達成しました。
しかし翌1993年は故障もあり年間出場試合数も100を切ってしまいます。94年にはアキレス腱の故障もあり出場試合数も67試合まで減り、翌95年に現役を引退しました。
15年間の現役時代のタイトルは打点王1回、最多勝利打点2回のみとなりましたが、通算本塁打382本は歴代22位ながらも実働15年間、出場試合数2000試合以下での記録としては立派な成績と言えるでしょう。
表彰は、MVP1回、新人王、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞2回を受賞、プロ野球の現役時代も名選手として名を残しました。引退後の1996年からはNHKの解説者を務め、1998年にジャイアンツの一軍野手総合コーチに就任して現場復帰します。
2000年には長嶋監督の下でヘッドコーチに就任、2002年に第15代読売ジャイアンツの監督に就任しました。
年度 | 順位 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
2002年 | 第一次 | 1位 | 86 | 52 | 2 | .623 |
2003年 | 3位 | 71 | 66 | 3 | .518 | |
2006年 | 第二次 | 4位 | 65 | 79 | 2 | .451 |
2007年 | 1位 | 80 | 63 | 1 | .559 | |
2008年 | 1位 | 84 | 57 | 3 | .596 | |
2009年 | 1位 | 89 | 46 | 9 | .659 | |
2010年 | 3位 | 79 | 64 | 1 | .552 | |
2011年 | 3位 | 71 | 62 | 11 | .534 | |
2012年 | 1位 | 86 | 43 | 15 | .667 | |
2013年 | 1位 | 84 | 53 | 7 | .613 | |
2014年 | 1位 | 82 | 61 | 1 | .573 | |
2015年 | 2位 | 75 | 67 | 1 | .528 | |
2019年 | 第三次 | 1位 | 77 | 64 | 2 | .546 |
2020年 | 1位(10月30日時点) | 63 | 41 | 7 | .606 | |
1087 | 817 | 65 | .571 |
就任1年目の2002年はいきなりリーグ優勝、日本シリーズも西武を相手に4連勝で日本一を達成します。しかし翌2003年は松井秀喜選手がメジャー移籍したことも影響し3位に終わりました。結局2003年限りわずか2年で監督を辞任します。
2004年から2年間は巨人軍特別顧問としてフロント入りしますが、2006年に監督に復帰、以降10シーズンにわたり第二次監督時代を築きます。しかし復帰1年目の2006年は自身の監督として唯一のBクラスの4位に終わりました。
しかし翌2007年からは巻き返しリーグ3連覇を達成、2009年には自身2度目の日本一を達成しています。2010年、2011年は落合監督率いる中日に連覇を許すも、2012年からは監督として自身2度目の3連覇、2012年には3度目の日本一に輝いています。
2015年は2位に終わり10年間にわたる第二次監督時代に終止符を打ちました。翌年からは再び巨人軍特別顧問を務めますが、2019年に3度目の監督復帰、球団史上初の3回目の監督就任となります。
2019年には復帰早々にリーグ優勝を達成、この時点でリーグ優勝8回、日本一3回と8回のリーグ優勝は監督優勝回数歴代5位の金字塔です。通算勝利数1024勝は監督の勝利数で13位にランキングされます。
そして2020年9月9日中日戦で原監督は通算1066勝をあげ、長嶋氏の通算勝利数を抜いて歴代11位、巨人の監督では川上監督に並ぶ歴代1位になりました。
2020年10月30日には巨人の2連覇を達成、自身9回目のリーグ優勝は通算3位の優勝回数、通算勝利数も1087勝と勝ち星を積み上げました。
もちろん現役の監督としてまだまだ勝利数を積み上げることが予想されます。ランキング10位の星野仙一元監督の1181勝は射程圏に入りました。ベスト10入りは時間の問題でしょう。いまや名将の域に到達したと言えます。
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さらに名将としてのすごさを表すのが、2009年の第2回ワールドベースボールクラシック(WBC)日本代表の監督としての優勝です。第1回大会の王監督に続いて大会2連覇を達成、2009年はWBCを始めリーグ優勝、日本一、日韓統一王者お4冠に輝き2度目の正力松太郎賞を受賞しています。
2019年までの13年間の監督生活では3回の正力松太郎賞を受賞、2020年のリーグ優勝で歴代の優勝回数ランキング3位タイに並びました。年齢も62歳と監督としてはまだまだ若いことを考えると優勝回数1位の11回も十分狙える位置にいます。
高校野球界の名将原貢氏を父に持つサラブレッドがいよいよプロ野球の優勝回数歴代ランキング1位に躍り出る日もそんなに遠くないかもしれません。
「名選手名監督にあらず」という野球界の格言がありますが、原辰徳氏はその定説を覆すほどの野球人生を歩んでいます。そんな原監督のすごさとは?高校時代、プロ野球現役時代の通算成績やタイトル、監督としての通算勝利数や優勝回数などの経歴をまとめました。
といったアマチュア時代からの輝かしい成績に加え、監督としての実績はすでに名将の域に達しています。62歳という監督としてはまだまだ若いことを考えれば、通算優勝回数11回の歴代1位も十分視野に入ってくるでしょう。
今後どれくらいの年数の監督生活を送るのかは不明ですが、名将として記録を伸ばしていくことに期待したいですね。