現役を引退して10年以上が経った新庄剛志氏とはどんな選手だったのか?まずはプロフィールを見てみましょう!
名前 | 新庄剛志(しんじょう つよし) |
誕生日 | 1972年(昭和47年)1月28日 |
投打・ポジション | 右投右打・外野手 |
出身 | 長崎県 |
出身高校 | 西日本短期大学附属高等学校(福岡) |
身長・体重 | 181㎝、76㎏ |
ドラフト年、指名球団順位 | 1989年阪神タイガース5位 |
出身は母の実家のある長崎県対馬市ですが、幼少時代は福岡県で育ちました。高校は西日本短期大学附属高校の野球部に所属しますが、甲子園の出場経験はありません。3年時の1989年のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団します。
高校時代のスカウトの評価は「打力:B、走力:A,肩:特A」と肩の強さでは断トツの評価でした。身体能力の高さは群を抜いていたようです。
年度 | 所属球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 打率 |
1991 | 阪神 | 13 | 17 | 17 | 2 | 1 | 0 | .118 |
1992 | 95 | 378 | 353 | 98 | 46 | 11 | .278 | |
1993 | 102 | 436 | 408 | 105 | 62 | 23 | .257 | |
1994 | 122 | 506 | 466 | 117 | 68 | 17 | .251 | |
1995 | 87 | 346 | 311 | 70 | 37 | 7 | .225 | |
1996 | 113 | 473 | 408 | 97 | 66 | 19 | .238 | |
1997 | 136 | 539 | 482 | 112 | 68 | 20 | .232 | |
1998 | 132 | 451 | 414 | 92 | 27 | 6 | .222 | |
1999 | 123 | 507 | 471 | 120 | 58 | 14 | .255 | |
2000 | 131 | 549 | 511 | 142 | 85 | 28 | .278 | |
2001 | NYメッツ | 123 | 438 | 400 | 107 | 56 | 10 | .268 |
2002 | SFジャイアンツ | 118 | 398 | 362 | 86 | 37 | 9 | .238 |
2003 | NYメッツ | 62 | 124 | 114 | 22 | 7 | 1 | .193 |
2004 | 日本ハム | 123 | 544 | 504 | 150 | 79 | 24 | .298 |
2005 | 108 | 406 | 380 | 91 | 57 | 20 | .239 | |
2006 | 126 | 477 | 438 | 113 | 62 | 16 | .258 | |
通算 | 1714 | 6589 | 6039 | 1524 | 816 | 225 | .252 |
入団1年目は2軍での出場のみ、2年目の1991年秋に1軍で試合出場します。3年目の1992年には1軍に定着して95試合に出場、打率も2割7分8厘の成績を残しました。この年は阪神は優勝を逃すもののシーズン終盤まで優勝争いに加わり、亀山務選手とともに亀新フィーバーで一躍有名となりました。
現役生活中の打撃部門でのタイトルはありませんが、ベストナイン3回(1993、2000、2004)、ゴールデングラブ賞10回(1993、1994、1996-2000、2004-2006)など球界を代表する選手としてその名を残しました。
新庄剛志選手は1989年にドラフト5位から阪神に入団、契約金3,700万円、年俸は360万円でした。
年度 | 所属球団 | 年俸(推定) |
1990 | 阪神 | 360万円 |
1991 | 400万円 | |
1992 | 460万円 | |
1993 | 2,200万円 | |
1994 | 4,300万円 | |
1995 | 5,500万円 | |
1996 | 4,900万円 | |
1997 | 5,700万円 | |
1998 | 7,300万円 | |
1999 | 6,200万円 | |
2000 | 7,800万円 | |
2001 | NYメッツ | 5,000万円(50万ドル) |
2002 | SFジャイアンツ | 1億3,500万円(135万ドル) |
2003 | NYメッツ | 6,000万円(60万ドル) |
2004 | 日本ハム | 8,000万円 |
2005 | 8,000万円 | |
2006 | 2億2,000万円 | |
通算 | 10億7,620万円 |
メジャーリーガー時代は、1ドル=¥100で換算していますが、生涯のプロ野球選手としての年俸は約10億円です。最高年俸は2006年の日本ハム時代の2億2,000万円ですが、本業以外のCM出演料などで最も稼いだ時の最高年収は13億円とも言われています。
現役時代の年俸を振り返っても1億円を超えたのはメジャー時代の2002年と先の2006年の2回しかありません。まだ年俸1億円の壁が高かった1990年代の選手生活が長かったこともありますが、本業以外の収入が多かったので選手としての年俸にはあまりこだわりがなかったのかもしれません。
新庄剛志選手は、選手としての能力、素質も一流でしたが、それ以上に球界を沸かせてきたのが数々の面白発言や面白エピソードです。当時の日本選手では考えられないような発言やエピソードは新庄選手を特殊な存在へと導きました。
かつては「新庄劇場」「SHINJO」といった言葉が流行語大賞の候補にノミネートされました。果たしてどんなエピソード、発言があったのか?早速見ていきましょう!
野球選手と言えば「下半身が大切」というのが定説で、一流選手になればなるほど走って走って下半身を鍛えぬきます。お尻が大きいのがいい選手の特徴とまで言われてきた時代において下半身の強化はどの選手も当たり前のように取り組んでいました。
そんな時代において新庄選手は下半身強化をしてこなかったのですが、その理由が「ジーンズがはけなくなるから」というものでした。プロ野球選手がそんなふざけた発言をするのか?と当時ぶったまげましたが、「走るときの足の回転スピードが遅くなるのではないか」と考えていたことも理由だったようです。
しかしその後はケガ防止のために下半身強化を取り入れ、足の筋肉を切ってしまった際にはジーンズの着用もやめてハードな筋力強化も行っていたようです。さすがに年間100試合以上ほぼ毎日試合に出るプロ野球選手として活躍できたのもこういった下半身の重要さを認識したからでしょう。
1995年のオフ、契約交渉後の記者会見にて「野球のセンスがないから野球を辞める」と現役引退を表明して物議をかもしました。1995年と言えば阪神のスター選手として活躍していたころです。
この発言の真相は、当時の藤田二軍監督との確執があったようです。足の故障でトレーニングルームで練習をしていたところ、全体練習に参加していない新庄選手をさぼりと誤解した藤田監督が1時間グラウンドの真ん中に正座させたことが発端となりました。
その後も藤田監督が一軍監督へ昇格、考え方が合わないと感じていた新庄選手は球団との交渉の末、現役引退を決めます。しかしこの後の会見で「監督と合わないから」といえば球団に迷惑がかかるし、「体力の限界、成績不振」を理由にしても無理があると判断した結果、「センスがない」っていえば周りも納得するだろうという判断から出た発言でした。
結局、この発言はそれはそれでマスコミからの叩かれましたが、お父さんが倒れたという一報を受けお父さんを励ますために一転現役続行を表明します。この一報は後にお母さんの一芝居だったのですが、すったもんだの挙句無事に現役続行することで落ち着きました。
新庄選手を語る上で外せないのがこの敬遠の球を打ってサヨナラヒットにしたエピソードです。1999年甲子園での巨人戦、延長12回の裏一死1、3塁の場面で新庄選手の打席で起きました。
満塁策を取ろうと巨人バッテリーは新庄選手を敬遠します。槙原投手が投じた第1球がやや外し方が甘く「このコースなら打てる」と判断した新庄選手は、第2球で同じコースに来た球を三遊間にはじき返し見事サヨナラヒットを決めました。
普通、敬遠球を打ちに行くことはストライクゾーンを大きく外れたボールを打つのでヒットになる確率も低いです。無理に打ちに行ってアウトや併殺になるリスクを考えたらまともな神経ならとても打ちに行けません。
しかし新庄選手ほどのセンスや思考回路ならば「打てる」と判断してその通りにしてしまうところがすごいです。この時は当時の野村克也監督、柏原純一打撃コーチとも事前に実行許可のサインが出るよう打ち合わせもしていたというところがこの二人の判断の思い切りの良さに感心してしまいます。
2000年にフリーエージェントの資格を取得した新庄選手は阪神をはじめ国内の他球団との交渉が報じられ、阪神は5年総額12億円の当時では破格の複数年の条件を提示しました。
しかし新庄選手はメジャーリーグのニューヨークメッツへの移籍を表明、契約金30万ドル(当時約3,300万円)、年俸は20万ドル(同約2,200万円)+出来高50万ドル(同約3,300万円)の3年契約と阪神の提示した条件からはかなり落ちる条件でした。
プロ野球選手の評価は契約金、年俸で表されるというのが一般的な考え方ですのでプロの選手としてより良い条件の球団に行くのは普通の考え方ですが、これだけ金銭面の条件に開きがあってもメジャーに挑戦するという新庄選手のこだわりが強く出たエピソードでした。
この時は「愛車を売ってでも」挑戦するという発言や、「記録はイチロー選手に任せて僕は記憶」という発言なども注目されました。他のプロ野球選手とはちょっと違うキャラクターや自由奔放な生き方に憧れを抱いた野球ファンも多くいたことでしょう。
3年間のメジャー生活を終えて日本球界へ復帰する際に最初にオファーのあった球団に行くと決めていました。その球団が北海道日本ハムファイターズです。この時に「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という目標を掲げ、登録名は「SHINJO」、背番号は「1」となりました。
日ハム移籍後の新庄選手はファンサービスを率先して行い、これまでのプロ野球選手とは一線を画したパフォーマンスで北海道の野球ファンのみならず多くの野球ファンを魅了します。早速紹介しましょう!
復帰後すぐの2004年オールスターに出場が決まった新庄選手は、オールスターでのMVP獲得を宣言しました。実際に第2戦では二塁打2本に2得点、3回裏にはホームスチールを決めてMVPを宣言通り獲得します。
ホームスチールは、3回裏に二死三塁の場面で投球後に捕手が投手に返球する際に本塁を陥れるものでクロスプレーの結果セーフ判定、オールスター初の単独ホームスチールとなりました。
MVPのインタビューでは「これからはメジャーでもない、セリーグでもないパリーグです!」という2004年のプロ野球再編問題を受けての発言が注目されました。
日ハム時代にはホームランを打った試合後のインタビューでそのホームランに独特の「〇〇打法」というネーミングをして報道陣やファンを楽しませてくれました。「振ったところにボールが来た打法」や「「コメント考えていなかった打法」「3時間しか寝とらんばい打法」「俺を育ててくれたこの球場に感謝打法」といったいろんな状況、思いをホームランにネーミングした独特の表現は楽しいものばかりでした。
そして2006年のシーズン開幕直後の2号本塁打の時には、「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」のネーミングで突然の現役引退表明をしたあたりも新庄選手らしい表明でした。
これは試合前のシートノックの時にかぶりものをしながらノックを受けるというパフォーマンスで、「蛙」「スパイダーマン」「ゴレンジャー」やわざわざ自身でお金をかけて製作したもの、新庄選手の顔を模したかぶりものなど様々ありました。
ゴレンジャーのかぶりものは日ハムの森本稀哲外野手、坪井智哉外野手など5人の外野手も一緒にかぶったり、新庄選手の顔の被りものでは森本選手以外に稲葉篤紀外野手なども加わる5人が全員新庄選手のユニフォームを着て行いました。
こういったパフォーマンスはこれらの日ハムの後輩選手たちにも影響を与えファンサービスの重要性を認識した選手も多くいました。
2006年には試合開始直前に守備位置につく際の入場時のパフォーマンスも目立ちました。バイクのサイドカーに乗せた他の外野手を守備位置でおろすパフォーマンス、地上50mのゴンドラから降下するパフォーマンスや始球式ではスターウォーズのダースベイダーに扮して自身が始球式を行いました。
これらのパフォーマンスは「ファイターズ超満員大作戦」と銘打ち、ドームを満員にするために自ら発案したことをきっかけに始まったものですが、「新庄劇場」として多くの野球ファンから注目され流行語大賞の候補にノミネートされるほどの盛り上がりを見せました。
さらに「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という目標も実現しました。この選手なら何かやってくれるんじゃないかという期待を抱かせる選手生活そのものを表しているように感じます。
ここまで新庄選手の経歴から数々の面白エピソード、面白発言を紹介してきましたが、ここに来て突然の現役復帰発言でまたまた多くの野球ファンの注目を浴びることになりました。
本人は2020年のトライアウトでの合格を目指すとのことですが、本人はいたって本気のようです。客寄せパンダ程度として獲得する球団があるならば拒否する姿勢を見せています。あくまでも現役選手としてプレーすることに強いこだわりがあるようです。
引退してから13年、年齢は47歳と年齢やブランクを見る限りでは普通にありえないと思います。阪神時代の恩師野村監督も「代表的なアホや」と一刀両断しましたが、それが普通の反応でしょう。
新庄選手は野村克也氏のこの発言に「今度会ったら説教する」と親しみを込めて反論しました。「年には勝てないという弱気な発言に対して今度会ったらウエスティンホテルで45分間説教」と新庄選手らしいコメントを残しています。
しかし卓越した身体能力で多くのファンを魅了してきた新庄選手に対して「ひょっとしたら」という期待を抱くファンも少なからずいます。日本ハムもこの発言を受けて「任意引退」ではなく「自由契約」選手として公示しました。
「任意引退」した選手の場合、引退語にプロ野球に復帰する場合は元在籍した球団日本ハムとしか契約ができませんが、「自由契約」扱いならば日本球界へ復帰した場合どこの球団とでも契約が可能となります。
現役復帰への道はかなり厳しいものになることが予想されますが、新庄選手にはその不可能を可能にしてほしいと心から応援したいですね!
47歳で突然の現役復帰を表明した新庄剛志選手の経歴、最高年俸や年俸推移さらに新庄選手にまつわる面白エピソード、面白発言を紹介してきました。普通の野球選手にはないその高い身体能力や発想が盛り込まれたかつてのエピソードには「ひょっとして現役復帰あるんじゃないの?」と思わせるものも多くあります。
など普通のスター選手ではないその言動に多くのマスコミや野球ファンが注目してきた新庄剛志氏。13年間のブランク、来年には48歳となる年齢で現役復帰はあるのか?
条件だけ見れば厳しいでしょうが、数々のチャレンジを実行してきた過去の実績をみれば期待してしまうファンも多いでしょう。かつて誰もなしえなかった50歳目前での現役復帰を是非成し遂げてほしいですね!